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野球講座〜コラム編

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にくきゅうユニフォームを泥だらけにできる男にくきゅう〜作者 羽生遊さま〜

 今の彼がどうしても見たくなった。

 初めて彼を見たのは2年前の宜野湾でのオープン戦、大きな瞳のショートがスタメンに名を連ねていた。守備は決して華麗ではない。でも果敢にボールに挑む貪欲さに目を奪われた。バットスイングは線の細い体と反比例するように豪快だった。 まだ19歳、ユニフォームを泥だらけにできる選手だった。

 4年目の内川聖一が開幕から好調を維持している。4月14日現在、打率でベストの3位、ホームランも3本打っている。それよりも僕は開幕戦に1塁にヘッドスライディングを試みるファイトに感心した。内川は2年連続最下位に喘ぐベイスターズに必要不可欠なものを持っている気がする。そんな彼を1日も早くこの目で見たくなったのだ。

 仕事を終え、横浜スタジアムに急いだ。JR関内駅を降りて見える逆3角形の照明灯が気持ちを昂ぶらせる。4月15日木曜。雨で1日流れたスワローズ戦は開幕同様、三浦とベバリンの先発、シビアな戦いが予想される。
 「2番、セカンド、内川」
 アナウンスがスタジアムの外に響いた。不振の鈴木に代わって内川が2番に抜擢されたようだ。4回裏、彼の第2打席には残念ながら間に合わなかった。

 僕は1塁側内野席のライトスタンド寄りに座った。すかさず後ろにいるサラリーマン風の男性から「お湯割り!」の声、春の夜風は心地良いがナイター観戦ともなればさすがにまだ冷える。
 その直後、いきなり内川のハッスルプレーに遭遇した。ファーストのウッズが早々諦めたファールフライを懸命に追いダイビングキャッチを試みる。ボールには遠く及ばなかったものの失敗を恐れない彼らしいプレーだ。

 6回裏の第3打席もベバリンに対して散々粘って10球を投げさせる。結局セカンドゴロには終わったものの、ボールに喰らいつく粘りもまた彼の持ち味となっている。

 そして最終回、2番手の加藤が打ち込まれて1対4でベイスターズは負けている。先頭打者は内川、是が非でも好機を作りたい場面だ。スワローズのピッチャーは豪速球の五十嵐、それでも1塁側とライトスタンドは逆転サヨナラを信じている。決して雰囲気は悪くない。

 「ウッチー!」所々から黄色い声援が飛ぶ。 初球、151キロのストレートが古田のミットに収まった。微動だにせず見送る。2球目の変化球を選んでワンストライク、ワンボール。3球目、4球目のストレートは立て続けにバックネット裏にファール。力と力の勝負、内川はストレートに的を絞ったようだ。

  『喰らいついている、タイミングも悪くない、いける、打ってくれ』僕は祈った。5球目、五十嵐が投じた渾身のストレートを内川は思い切り振り抜いた。快音と共に猛烈な勢いでボールが僕の方にぐんぐん近づいてくる。あっと言う間に打球は僕の遥か頭上を越し、1塁側内野席の通路に突き刺さる。

 一瞬にして喚声がため息に変わった。

 結局、内川は4打数ノーヒット。ベイスターズも負けた。
 でもこの日の横浜スタジアムにもユニフォームを泥だらけにできる内川はいた。また彼を見たい。稲葉のヒーローインタビューをきっかけにスタジアムを出る。横浜の空には東京音頭が流れていた。

にくきゅう一本足打法が生まれた日にくきゅう

『王貞治』言わずと知れた、日本が誇る世界のホームラン王。その独特の一本足打法を習得するまでの秘話

世界の王と言われる彼も、最初から華々しい活躍をしていた訳ではない。昭和34年に巨人軍に入団。期待されていたが、初打席から実に26打席連続ノーヒット。最初の年は打率.161、ホームラン7本、打点25と大低迷。2年目、3年目と、そこそこ打率は残すが、3割にいくことはなく、とてもクリーンナップを任せられる打者ではなかった。

そんな王さんに『一本足打法』を提案したのは当時の荒川バッティングコーチ。荒川氏は王さんがバットを振るときに、腕を後ろに引く癖があることを指摘。以来、その癖を修正する為に右足を上げてスイングする練習が始まった。昭和36年10月から、シーズンが始まるまで特訓は続いた。

そして4年目のシーズンが始まり、打席に立つ王さん。しかし特訓の成果はなかなか現れない。この年は当時の長嶋さんの不調も手伝って、巨人は不振にあえいでいた。6月30日、当時の大洋に負けた試合後、王監督が荒川コーチにポツリと言った言葉。それは「打席に立つのが怖い」だった。当時の王選手は追い詰められていた。半年以上練習してもそれが結果に現れないことに焦りも感じていた。

そして運命の『昭和37年7月1日』。その日は雨で試合開始が延長。そんな中、緊急コーチミーティングがあり、荒川コーチは当時のヘッドコーチにこってり絞られ、つい(?)「王にホームランくらい、いくらでも打たせますよ!!」と豪言。その後荒川コーチは王のズボンを引っ張りこう言った「王よ、お前足をもっと上げろ。もっと膝から挙げろ。ピッチャーが足を上げたら足を上げて、下ろしたらお前も足を下ろして打って来い」と。

藁にもすがる思いの王さんは、その日、言われたとおり足を高々と上げてスイング。『一本立ち打法』が生まれた瞬間。第一打席ヒット、第二打席ホームラン。この日から世界の王はホームランを量産することになる。

しかし一本足打法には弱点があった。それは”タイミングがとりづらい”ということ。この為、緩急をつけた打球はなかなか打てなかった。これを克服する為に行ったのが、「合気道」や、有名な「真剣刀」を使った特訓だった。以前の練習と違い王監督はこの練習に全神経を注いだ。監督は言う。「結果が出るから、練習が楽しかった」と。

こうしてタイミングをとる特訓を重ねた王さんは、「一本足打法」を完全に自分のものとし、1964年、ついに『シリーズ55本本塁打』という大記録を打ち立てたのだった。

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